戦間期④ 1925年以降の国際協調
今回は戦間期④ということで、1925年以降の国際協調(軍縮など)の流れについて解説していきます。
以前に扱ったヴェルサイユ体制はその後、様々な条約や会議で増強・補強されていきます。今回はそういった条約を一気にまとめて説明します。戦間期の国際協調の記事はこれが最後の予定なので、張り切っていきましょう!
戦後の国際秩序
①戦後のドイツとロカルノ条約
まずはロカルノ条約です。ロカルノ条約について理解するためにまず、戦後のドイツの様子を見てみましょう。
さて、敗戦によってドイツは
a.領地の喪失 b.賠償金
という二つの問題を抱えることになりました。
まず、ヴェルサイユ条約の結果、ドイツはアルザス・ロレーヌ地方を失いました。 (→フランス領へ)
また、賠償金の支払いが遅れたことへの報復として、1923年にベルギーとフランスはルール地方を占領しました。ルール地方はドイツの工業の中心だったので、占領によって生産は停滞し、多額の賠償金によってすでに発生していたインフレーションを加速させ、ドイツ経済は崩壊しました。
ドイツマルクの価値推移(ハイパーインフレーション)
札束で遊ぶ子供たち
シュトレーゼマン
シュトレーゼマンは通貨改革を実行し、価値が暴落していたマルクに代わってレンテンマルクを発行することによって、インフレを収束させることに奇跡的に成功しました。また外交面でも活躍し、国際協調を進めました。その一つがロカルノ条約の締結です。
☆ロカルノ条約(25)...英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキア
→ヨーロッパの集団安全保障、国境の現状維持・不可侵などを定めた
→ドイツの国際社会復帰 ※ドイツの国連加盟(26) ※ソ連の排除→反発
②パリ不戦条約とロンドン海軍軍縮条約
さて、このほかにも国際協調の流れによってさまざまな条約が結ばれ、戦後の世界の安全保障を担いました。ここではそのうち、特に重要なものを2つ紹介します。
☆パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)
→ケロッグ(米)とブリアン(仏)が提唱、戦争そのものを否定する史上初の国際条約→国連未加盟の米ソも参加
パリ不戦条約
☆ロンドン海軍軍縮条約...ワシントン海軍軍縮条約期限切れ+補助艦の保有制限が必要 という理由から開催
→米・英・日が参加、主力艦だけでなく補助艦にも保有制限
→日本軍部:保有可能数が米英より少ないことに反発→統帥権干犯問題へ
主力艦(乗り物ニュースより)
さて、ここまで3回にわたり戦間期の国際秩序について解説してきましたが、どうだったでしょうか。
とにかく大事なのは
ヴェルサイユ体制とワシントン体制が中心にあって、それをほかの条約が支えていた
というイメージです。まずは大きなイメージをつかみ、そこから細かい知識を覚えていくのが歴史では大事なので、ぜひこれからはそのような目線をもってみてください!
さて、次回は少し時代がさかのぼり、第一次世界大戦終結直後の世界の国々について解説していきます。ここまで読んで下さりありがとうございました!
戦間期③ ワシントン会議
今回は戦間期③ということで、主にワシントン会議について解説していきます。ワシントン会議はパリ講和会議に比べるとあまり有名ではない気がしますが、非常に重要な出来事なのでしっかり覚えましょう!
ワシントン会議=アメリカの外交方針の転換点
ワシントン会議は、1921年にアメリカ大統領のハーディングの主導のもと開催されました。この会議では主に太平洋に関する問題が話し合われ、海軍軍備軍縮条約・四ヶ国条約・九ヶ国条約が結ばれました。また、これらの条約によって成立した国際秩序をワシントン体制といい、ヴェルサイユ体制を支えました。
さて、タイトルにもある通りワシントン会議はアメリカの外交史において大きなターニングポイントでもありました。では、具体的にどのように外交方針が転換されたのでしょうか?少し考えてみましょう。
まず、パリ講和会議でのアメリカを思い出してみてください。会議を主導する中心的なポジションでしたが、ヴェルサイユ条約には...批准を拒否していましたよね。苦労して設立した国際連盟にも不参加でした。なぜでしょうか?
孤立主義とは、簡単に言ってしまえば
「俺(アメリカ)はお前ら(ヨーロッパなど)とは手は組まないしそもそも関わんないから、お前らも俺に手出すなよ」
という(実社会でやれば友だちを失うこと必至の)外交方針のことです。この方針によってアメリカは外国との関わりを極端に避けてきました。
しかし、第一次世界大戦によってアメリカは国際社会において重要なポジションを占めることになります。債権国(他国にお金を貸している状態の国)となり、ドイツの賠償問題にも関わっていたので、世界のトップという責任が自然に発生したのです。
そんな中当選したハーディングはウィルソンの国際協調を否定し、ワシントン会議を開催しました。ここでアメリカの孤立主義は薄れ、積極外交へ転換されていきます。
ハーディング
アメリカの目的=日本の太平洋での拡大阻止
21カ条の要求などによって中国、太平洋で着々と勢力を拡大する日本は、同じく太平洋進出を狙うアメリカにとって脅威でした。そこでワシントン会議では、アメリカが太平洋で優位になるような条約を次々に結んでいきます。
この目線でワシントン会議を見れば、丸暗記よりもはるかに記憶に定着しやすいですよ!!
①海軍軍縮条約…米・英・日・仏・伊
→主力艦(戦艦+空母)の建造を10年間禁止、保有比率制限
→日本の海軍力拡大阻止に成功 ※イギリス→大幅な弱体化
②四ヶ国条約…日・米・英・仏
→太平洋の現状維持、日英同盟の破棄
③九ヶ国条約…日・米・英・仏・伊・蘭・葡・ベルギー・中国
→中国の1.主権尊重 2.領土保全 3.門戸開放 4.機会均等 日本の山東半島返還
→日本の中国での勢力拡大阻止
どうでしょうか。どの条約からも日本の力を削ぐというアメリカの狙いがひしひしと感じられますよね。これ以降日本とアメリカは次第に対立していくので、太平洋戦争への布石はこの時から打たれ始めたともいえるでしょう。
今回は以上となります。ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回もお楽しみに!
戦間期② パリ講和会議とヴェルサイユ条約
今回は戦間期②ということで、第一次世界大戦の戦後処理について解説します。戦間期①の続きとなりますので、まだ読んでない方は先に読んでください!
さて、まずは今回から数回にわたって解説する内容を年表にしたので、こちらをご覧ください。
少し見ただけで頭が痛くなってきた方もいるかもしれませんが、しっかりと知識を整理すれば何ということはありません。では始めましょう!
パリ講和会議とヴェルサイユ条約
第一次世界大戦はドイツの降伏によって1918年に終結しました。
戦争で焼け野原になってしまったヨーロッパでは復興が始まり、それと同時に敗戦国をどう扱うかについての話し合いがパリのヴェルサイユ宮殿で1919年から始まりました。(パリ講和会議)
そしてこの会議の結果、1919年に結ばれたのがヴェルサイユ条約です。
このパリ講和会議で重要なのは
という対立構造です。もう少し詳しく解説します。
まず分かりやすいのはイギリス・フランスでしょう。この二国は戦争によって多くの国民が犠牲となりました。そのため、ドイツを非常に恨み、多額の賠償金と領土をとって報復しようと考えてました。
一方のアメリカです。もともと第一次世界大戦には参戦しない方針でしたが、ドイツの潜水艦によってアメリカ人が多く乗船していた客船が撃沈された事件(ルシタニア号事件)やドイツの無制限潜水艦作戦(中立国の民間船も攻撃)をうけて、当時の大統領ウィルソンが参戦を決意しました。(1917年)
独潜水艦に撃沈された ウィルソン大統領 ルシタニア号
ここで押さえておきたいのが「14カ条の平和原則」です。これは、ウィルソンがアメリカが参戦した翌年(1918年)に発表したもので、軍縮(軍備縮小)や民族自決(自分たちのことは自分で決める)、国際的平和組織の設立を唱え、国際協調路線を打ち出しました。
この国際協調の考え方は、植民地を多くもち、なおかつドイツへ多額の賠償を要求することを考えていたイギリス・フランスにとっては好ましくないものでした。
そのためパリ講和会議で
アメリカ vs イギリス・フランス
という対立構造が出来上がったのです。
この両者の対立ですが、アメリカの提案にあった国際的平和組織の設立は国際連盟という形で実現し、軍縮に関しても同意を得ます。しかし、ドイツに対してはイギリス・フランスの要求通り、多額の賠償が求められました。この過酷な報復がのちに第二次世界大戦を引き起こすナチスドイツを誕生させたともいわれています。
何はともあれ、こうして第一次世界大戦は正式に終結し、ヴェルサイユ条約をもとにした国際秩序(=ヴェルサイユ体制)が成立しました。
ヴェルサイユ条約の問題点
さて、ヴェルサイユ条約はこのほかにも多くの問題点を抱えていたので紹介します。
①会議を主導してきたアメリカがまさかの批准拒否 →アメリカは伝統的に孤立主義を外交方針としていたため(国際連盟にも不参加)
※孤立主義:1823年にモンローが掲げた考え方。ヨーロッパとは互いに関わらないことや、ラテンアメリカでのアメリカの優位性を主張した→戦間期③で改めて解説
②中国の調印拒否 →日本の21カ条の要求が承認されたため
※21カ条の要求:1915年、日本が中国に対して行った要求/ドイツ権益の継承を主張
③日本が提案した人種平等が否決 →賛同国も多かったがウィルソンが反対したため否決
今回は以上となります。お読みいただきありがとうございました!
戦間期① 戦間期とは?
はじめまして。Gen.Wisdomです。
これからこのブログで歴史総合の解説を行っていきます。 まだまだ拙い文章、拙い記事ですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。 よろしくお願いします!
さて、記念すべき一回目の今回は、戦間期①ということで、まずは戦間期がどのような時代だったのかについてざっくりと紹介しようと思います。
戦間期という言葉自体がそれほどメジャーではなく、初めて聞いたという方も多いのではないでしょうか?もしそうなら、読み進める前に、どの時代のことを指しているのか予想してみてくださいね。
では、はじめましょう!
戦間期とは?
戦間期とは、文字通り
すなわち1919年(=ヴェルサイユ条約が結ばれた年)から1939年(=ドイツがポーランドを侵攻した年)の20年間を指します。
第一次世界大戦は、人類が歴史上初めて経験した世界中を巻き込んだ戦争でした。
毒ガスや戦車、潜水艦、飛行機などといった新兵器が使用されたことや、塹壕戦の膠着(こうちゃく)により、大量の犠牲者が生み出され総犠牲者数(兵士+一般人)は1,700万人超ともいわれています。
また、男性だけでなく女性や子供までもが戦争への協力を求められた総力戦でもありました。ですので参戦国にとっては、まさしく国家の命運をかけた命懸けの戦いだったのです。
コラム:フリッツ・ハーバーと毒ガス
フリッツ・ハーバーは、空気中の窒素からアンモニアを生成するハーバー・ボッシュ
法の発見によりノーベル化学賞を受賞した、ドイツの科学者です。
それと同時に毒ガス研究の第一人者でもありました。
ハーバーは
「毒ガスの研究、そして実用化こそが戦争を早く終わらせて、多くの人命を救う素晴らしい方法だ」
と信じていました。
そして妻で同じく科学者のクララの自殺(毒ガス研究への抗議か、夫の不倫が原因かは分かっていません)にも関わらず、ハーバーは研究を続けます。
第一次世界大戦に敗戦し経済的に苦しくなったドイツで、それでもハーバーは研究をつ続けました。
しかし、歴史は無情でした。
「水晶の夜」事件(気になった方は調べてみてください)
迫害は、生涯をドイツのために捧げたハーバーにも及びました。ハーバーはユダヤ人だったのです。
ドイツから追われるようにして去ったハーバーは、失意のうちに隣国スイスで息を引き取りました。65歳でした。
まとめ
戦間期は、ややこしい時代です。各国の思惑が複雑に絡み合い、情勢は目まぐるしく変化します。この時代を理解するためには、まず戦間期がどのような時代なのか捉えましょう。
戦間期はひとことでいうと
です。
この言葉の意味はこれからの記事を読めばわかります。とりあえず今は、「戦間期って憎しみ多かったんだなー」とだけ覚えておいてください。
また、以下の3つのポイントを押さえておくと、流れが把握しやすいので覚えておいてください。
①パリ講和会議はヨーロッパ、ワシントン会議は太平洋に関する会議
②アメリカの発展→世界の中心に ☆イギリスの衰退
③ドイツ・イタリアで国民の不満からファシズムが台頭
→第二次世界大戦へ...
今回は以上となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ほかの記事もぜひ読んでください!