戦間期⑧ 激動の中国 PART.A

今回は戦間期⑧ということで、中国を見ていきます。

今までの記事でも何度か登場していましたが、この記事でまとめて押さえましょう!

 

では、早速始めます!

 

 

 

  第一次世界大戦直後の中国

 

 

1919年にパリで開催されたパリ講和会議ですが、ここで少しだけ中国は登場していました。どういうエピソードで出てきたか覚えていますか?

 

そう、ヴェルサイユ条約調印拒否ですね!では、なぜ拒否したのでしょうか?

 

 

 

それは、ヴェルサイユ条約では、日本から21カ条の要求で奪われた山東半島の返還が認められなかったからです。

 

このことは中国人の怒りに火をつけました。国内では激しい反対運動、反日運動がおこり、その中でも特に5.4運動が有名です。

 

 

その後のワシントン会議山東半島は返還されましたが、依然として日本やアメリカをはじめとした国々から植民地化する機会を今か今かと狙われていました。

 

加えて、国内では軍閥による対立が続いていました。軍閥とは、軍事力を用いてある地域を支配していた集団のことです。当時の中国には多くの軍閥が存在し、それらが互いに争いあっていました。

張作霖 奉天軍閥総帥

 

 

 

  ②第一次国共合作

この状況に焦ったのが、国民党共産党です。彼らは考え方は根本的に違いますが、どちらもいまは国内で争うのではなく外国、特に日本のため備えるべきだと考えていました。(日本の幕末の志士たちととても似ていますね)

 

 

そこで国民党の孫文は、1924年共産党の連携を決断し、「連ソ・容共(共産主義容認)・扶助工農(労働者や農民の戦いを助ける)」の3本の柱を掲げました。

 

これが第一次国共合作です。絶対に、今日はこれだけでも覚えてください…!

 

 

1926年、ついに国民党は、北京にいる軍閥政府を倒すため、北伐と呼ばれる軍事行動を開始し、これに共産党も協力します。

 

しかし、北伐の完成まであと一歩というところで、国民党の蒋介石は共産化を恐れ、上海で共産党を弾圧・排除します。(上海クーデタ

 

これをもって第一次国共合作は崩壊しますが、その後国民党は張作霖を北京から追い出して、単独で北伐を達成し、ついに南京国民政府を成立させます。

 

ただ、ここで反発したグループがいくつかあります。

 

まずは旧軍閥勢力です。当然ですよね。国民党によっていきなり権力の座から引きずりおろされたのですから。

 

そして、共産党です。上海クーデタで弾圧され、一度はほぼ壊滅した共産党ですが、その後ふたたび力を取り戻しました。こうして復活を図る共産党と、国民党の間で国共内戦がはじまり、中国は混乱に陥ったのです。

 

 

 

+α 日本の反応 

爆破現場

 

 

北伐による中国の統一は、中国の植民地化を目論む日本にとっては、目障りな動きでした。そのため、日本は3度にわたり山東出兵を行いましたが、妨害に失敗し、北伐は完成されます。

 

すると関東軍の一部は、日本がそれまで支援してきた奉天軍閥張作霖を役に立たない用済みな存在と判断し、列車ごと爆殺しました。(張作霖爆殺事件)

 

この事件は日本では満州某重大事件と呼ばれ、真相は戦後まで国民に隠されました。

 

 

 

 

 

今回は以上となります。

 

ふたたび国内での対立が激化した中国が、その後どのような流れで日中戦争第二次世界大戦、そして太平洋戦争に突入していくのかは次回の記事で解説します!

 

お楽しみに!