戦間期⑨ 激動の中国 PART.B
今回は戦間期⑨ということで、引き続き中国を見ていきます。
様々な人や国の思惑が複雑に絡み合っていて難しく見えるかもしれませんが、頑張ってついてきて下さい!
では始めましょう!
第二次国共合作が成立し、祝杯をあげる毛沢東(右)と蔣介石(左)
①満州事変
事件現場で検証を行うリットン調査団
国共内戦中の1931年、柳条湖で南満州鉄道が爆破される事件(柳条湖事件)が起きます。関東軍(満州に置かれた日本軍)はこれを張学良軍(張作霖の子)による犯行と断定し、に軍事行動を開始します。
これが、日本の15年戦争のきっかけとなる、満州事変です。日本政府は不拡大方針をとり、戦場をこれ以上広げない方針でしたが、関東軍はこれを無視します。
+α 満蒙は日本の生命線
「守れ満蒙-帝国の生命線」
関東軍には伝統的に「満蒙は日本の生命線」という考え方がありました。これは日本
の不景気を受けて、政党や財閥、新聞にも支持されました。この論理によって、日本は満州事変、そして日中戦争に突き進んでいったといえるでしょう。
1932年、関東軍は溥儀を執政とした満州国を建国しますが、どうみても日本の傀儡国(日本のいいなりの国)だったので、国際社会は承認しませんでした。
1933年の国連総会では、リットン報告書に基づいて日本の撤兵が賛成多数で可決されました。これを日本は拒絶し、同年国連を脱退、国際社会での孤立を深めます。
国連総会を退席する松岡洋右全権代表
日本国内でも犬養内閣は満州国建国に否定的でしたが、5.15事件によって犬養毅が暗殺され、軍部主導のファシズム体制になると、軍部に反対できる人はほとんどいなくなりました。
5,15事件を報じる新聞(写真は犬養毅)
②西安事件と第二次国共合作
しかし、日本の侵攻が本格化しても、蒋介石は共産党との戦いを優先しました。これに対して、中国国内全体から非難が巻き起こります。
そんな中、西安の国民党軍を激励に来た蔣介石が、張学良に監禁される事件が起きました。(西安事件)そして張学良は蒋介石に対して、内戦を早く止めて、共産党と協力して日本に立ち向かうべきだと主張します。
張学良は、父の張作霖が日本軍に利用された上、陰謀で殺害されたので、日本のことをとても恨んでいたのです。
彼の必死の説得もあり、次第に蔣介石の心は抗日へと傾いていきました。
そんな中、1937年、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が勃発します。これを受けて、共産党は抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ、国民党も応じます。
こうして、日本という共通の敵から祖国を守るため、第二次国共合作が成立したのです。
③日中戦争の長期化
南京城入城
盧溝橋事件から関東軍は電撃戦を展開、国民政府の首都がおかれていた南京を攻略しました。この時、大量の民間人を虐殺する南京虐殺事件が発生しました。
しかし、国民政府はそのとき首都を重慶に移しており、そこでアメリカやイギリス、ソ連からの支援(援蔣ルート)を受け抵抗をつづけました。また、華北の農村地帯では共産党軍がゲリラ戦を行い、日本軍を苦しめました。
これらの抵抗運動に対し日本軍は重慶を爆撃したり、汪兆銘(おうちょうめい)をトップにした傀儡政権(=日本のいいなりの政権)の樹立などで対抗しますが、効果を上げることはできませんでした。
+α 「国民政府を相手にせず」声明
当時の第一次近衛文麿内閣は「国民政府を相手にせず」声明を1938年に発表しました。これにより、国民政府との交渉の可能性は断たれ、戦争の長期化を招きました。
(秘密裏の交渉はありましたが、ことごとく失敗しました)
④太平洋戦争へ
1940年5月、ドイツのフランス占領のニュースを聞いた日本は、これを援蔣ルート遮断のチャンスととらえ、北部仏印進駐を行いました。(天然資源確保の狙いもあります)
これを機に英米との対立が不可避となった日本は、日独伊三国同盟(1940)や日ソ中立条約(1941)などを結び、戦争への準備を進めました。
1941年7月、南部仏印進駐を行ったことで、対英米関係は急速に悪化します。そしてついに1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦を決行し、太平洋戦争が始まるのです。
今回は以上となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!