戦間期⑥ イタリアとドイツ Part.A
今回は戦間期⑥ということで、前回に引き続き1920年代、30年代ごろの世界のようすを国ごとに見ていきます。
今回と次回はイタリアとドイツです。ファシズムがという考え方が台頭し、第二次世界大戦では連合国と激しく対立し、その結果第一次世界大戦を上回る犠牲者を生み出したこの二か国。特にナチスドイツによるユダヤ人虐殺は、人類史に癒えない深い傷を残しました。
なぜこのような惨劇はおきてしまったのか。戦争を避ける手立てはなかったのか。そういったことに思いを巡らせながら読み進めていただければと思います。
では、始めましょう。
⓪「持てる国」と「持たざる国」
ドイツによるポーランド侵攻(39)
なぜイタリア、ドイツ、日本ではファシズムが台頭したのか。なぜイギリスやフランスではファシズムはそこまで広まらなかったのか。
その大きな理由として、イギリスやフランスは植民地を「持つ国」だったのに対してイタリア、ドイツ、日本は植民地を「持たざる国」だったことが挙げられます。
1929年の世界恐慌によって各国はそろって不況に苦しめられました。しかし、イギリスとフランスは世界各地に植民地を持っていたため、ブロック経済(自国の通貨を使う国以外とは貿易しない政策)を実施し、不況をある程度抑えることができました。
一方、ドイツ、イタリア、日本はというと、この三ヶ国はイギリス・フランスに比べて、帝国主義を掲げるのが遅かったため、植民地獲得競争に出遅れ、その結果ほとんど植民地を手に入れることができませんでした。
そのためブロック経済を実施することができず、不況はますます進行し国民の不満は高まりました。
では、どうすればこうした国民の不満を解消することができるのか。
そう、この問いに対してヒトラーやムッソリーニが出した答えが「イギリスやフランスのように植民地を持つ」つまり他国を侵攻して植民地化するという考え方だったのです。
そしてその表れがイタリアのエチオピア侵攻(35)であり、ドイツのポーランド侵攻(39)なのです。
①イタリア
第一次世界大戦では未回収のイタリア(南チロルとトリエステ)を返還するというイギリスからの誘いを受けて、協商国(連合国)側に寝返ったイタリアですが、戦後期待したほどの領土や賠償金を手に入れることができませんでした。
これに不満を募らせたイタリア国民の前に現れたのが、ファシスト党の党首だったムッソリーニです。ファシスト党はその名の通り、ファシズム(全体主義)を掲げた政党ですが、ここでファシズムの意味を確認しておきましょう。
さて、このムッソリーニは1922年にローマ進軍を決行し、ファシスト党員4万人と共にローマ中枢を占拠しました。これにビビった当時の皇帝ヴィットーリオ=エマヌエーレ三世は、ムッソリーニを首相に指名します。
こうして政権を奪取したムッソリーニは独裁を開始し、1935年には当時アフリカでリベリアとともに独立国としての地位を維持していたエチオピアに侵攻しました。また、スペイン内戦ではドイツと共にフランコ将軍を支援しました。
※スペイン内戦についてはいずれほかの記事で解説します
これらの軍事行動は国際社会での非難を浴びましたが、ムッソリーニは同じく孤立を深めていたヒトラー率いるナチスドイツに接近、1936年にはベルリン=ローマ枢軸を成立させます。
その後これに日本を加えた日独伊三国軍事同盟が成立し(40)翌年には太平洋戦争が開戦、戦争は世界中に拡大しました。
今回は以上となります。最後までお読みいただきありがとうございました!