戦間期⑪ 東南アジアと朝鮮
今回は戦間期⑪ということで、東南アジアと朝鮮を見ていきます。
過去一マニアックかもしれませんが、甘く見ずにしっかり押さえておきましょう!
(今まででいちばん個人的趣味が入った記事かもしれませんがご容赦を)
①東南アジアの民族運動
東南アジアで押さえておきたい国は、A.インドネシア B.ベトナム の2つです。これらのは戦後史でも登場するので、しっかり押さえておきましょう!
A.インドネシア
まずはインドネシアです。意外かもしれませんが、実は当時のインドネシアはオランダの植民地支配を受けていました。
そんな中1920年にインドネシア共産党(アジア初の共産党)が結成されると、彼らは独立を目指して戦いました。しかし、当然ですが、オランダ当局から厳しい弾圧を受け、1924年の反乱にもついに失敗し、ほとんど壊滅してしまいました。
その後しばらくして登場したのが、おなじみ、スカルノです。スカルノは、インドネシア国民党を結成し、ムルデカ(独立)を合言葉に植民地政府へ協力しないよう民衆に呼びかけました。
この運動はインドネシア全土に拡大し、1949年に独立という形で実を結びました。
B.ベトナム
1930年、ホー=チ=ミンなどの手によってベトナム共産党(インドシナ共産党)が結成されました。彼らはベトナム統一同盟の中心として、第二次世界大戦後、ベトナム民主共和国の独立を達成し、インドシナ戦争(1946~54)ではフランスと戦い、勝利しました。
「これだけ?」という声が聞こえてくるようですが、歴史総合の段階ではこれでも十分すぎるくらいです。
しかしこの時代の東南アジア史は本当にめちゃくちゃ面白いので、ぜひ自分でもいろいろ調べてみてください!
+α コミンテルンとアジアの共産党
さて、ここまでの記事を読んでこう思われた方がいるのではないでしょうか?
この時代のアジアって共産党めちゃくちゃ多くない…?
そうですよね。中国共産党にインドネシア共産党、それからベトナム共産党… そういえば日本でも1922年に日本共産党が結成されています。
では、どうしてたくさんの共産党がこの時期に世界各地(東南アジアとは事情が違いますが、イギリスやフランス、イタリアでも共産党は結成されていました)で誕生したのでしょうか?
さて正解発表です、ずばり答えは
からです。
詳しくは、次の記事「ロシア革命とソ連」を読んでほしいのですが、コミンテルン(別名:第三インターナショナル)は、1919年に結成された、世界の共産運動を支援する組織です。
当初の目的は革命の「指導」だったのですが、ことごとく失敗したため、次第に「民族運動の支援」や「反ファシズム人民統一戦線の結成支援」などの「支援」の色が強くなりました。
だから1920年代から30年代にかけて、東南アジアではコミンテルンが植民地からの独立を目指している人たちを「支援」するという形で、共産党が次々と結成されたのです。
②朝鮮の三・一独立運動
韓国併合から9年後の1919年、ウィルソンによって発表された「民族自決」は、それまで西洋列強からの植民地支配で苦しんできたアジアの人々にとって希望の光でした。
それは朝鮮の人々にとっても例外ではなく、1919年3月1日、数千人の学生や民衆が京城の公園に集まって「朝鮮独立万歳!」を叫びました。三・一独立運動です。
当然ながら朝鮮総督府や軍、警察はすぐさま集会を弾圧しましたが、運動の拡大を抑えることはできませんした。けっかとして数千人もの死者と5万超の逮捕者を出す一大事件へと発展し、このことは日本政府に大きな衝撃を与えました。
ですのでこの事件の後から日本の朝鮮統治の方針は、力で人々を押さえつける武断政治から、穏健な文治政治へと転換されたのです。
今回は以上となります。 最後までお読みいただき、ありがとうございました!
戦間期⑩ 西アジアとインド
今回は戦間期⑩ということで、西アジアとインドを見ていきます。
第一次世界大戦後、活発な民族運動が展開されたこの地域ですが、どうしてもヨーロッパに比べると軽視されている印象があります。
しかし!!!
現在の国際問題につながる重要な内容も多いので、しっかりマスターしましょう!
①西アジアの民族運動
まずは、西アジアの民族運動を見てきましょう。
「そもそも民族運動って何?」と思われる方もいるかと思いますが、簡単にいってしまえば支配国からの独立運動のことです。
第一次世界大戦後、アジアではヨーロッパから独立しようという声が高まりました。ここではその中でも、A.パレスチナ B.アラビア半島 C.イラン D.トルコを見ていきます。
A.パレスチナ
まずは、パレスチナ地域からです。「パレスチナ問題」という言葉を聞いたことはありませんか?その原点がここにあります。
まず、上の図を見てください。明らかに矛盾してますよね。
ある領土(パレスチナ地域)について、一方では
イギリス・フランス・ロシアで三分割しちまおうぜ!
と約束して、他方では
アラブ人の独立国家をつくってあげる!
と取り決め、さらには
ユダヤ人の国をつくろうぜ!
と言っているのです。これはイギリスの三枚舌外交と呼ばれています。
なぜこのようなことになってしまったのかといえば、イギリスが戦争に勝利しようとして向こう見ずな約束をしたからです。
フセイン・マクマフォン協定によって、アラブ人の反乱を促し、敵だったオスマン帝国の内部崩壊を目論み、またバルフォア宣言によってユダヤ資本を取り込もうとししました。
しかし、これらの約束を守る気はイギリスにはさらさらなく、英仏露でオスマン帝国領を三分割するのが本当の狙いでした。
こうしてまかれた矛盾の種は、100年以上続くパレスチナ問題の元凶として、憎しみの連鎖を生み出し続けています。
+α アラビアのロレンス
イギリスの歴史学者・将校でアラブの反乱に協力し、英雄と呼ばれました。しかし、本人はアラブ人の独立国家の夢が叶わぬものと知っていながら彼らに協力するおのれの姿に苦悩し、失意のまま交通事故で亡くなりました。
B.アラビア半島
王家サウード家に生まれたイブン=サウードが、統一運動をすすめ、1925年にはヒジャーズ王国を滅ぼして、ほぼ統一を成功させました。
そして1932年には、サウジアラビア王国の樹立を宣言しました。サウジアラビアとは「サウード家のアラビア」を意味します。
C.イラン
1796年、イランではサファヴィー朝の滅亡をうけてカージャール朝が成立しました。1921年、レザー=ハーンはカージャール朝に対してのクーデターを成功させ、1925年にパフレヴィ―朝を開きました。レザー=ハーンは政教分離、男女同権を主張して近代化をすすめ、1935年、国号(国の名前)をイランに改称しました。
D.トルコ
ムスタファ=ケマル
第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国は、大戦終結後、戦勝国による領土分割の危機に瀕していました。
ここで絶体絶命のトルコを救ったのが、軍人ムスタファ=ケマルです。
ケマルは、祖国解放運動を指導して、侵攻してきたギリシア軍を撃退し、1922年にはスルタン制を廃止してオスマン帝国を滅亡させました。そして1923年、ローザンヌ条約によって領土の回復を実現し、トルコ共和国を成立させました。
ケマルは大統領に就任すると、政教分離や文字改革(アラビア文字からローマ字へ)婦人解放などの近代化をすすめました。この一連の改革のをトルコ革命と呼びます。
②インドの独立運動
マルセイユに上陸するイギリス軍インド人部隊
第一次世界大戦中、インドはイギリスに全面的に協力しました。インド人がイギリス軍としてヨーロッパの戦場に動員されたことがそのよい例でしょう。
インドがこれほどイギリスに協力的だったのは、戦争が終わったら自治権が獲得できる約束をイギリスとしていたからです。
しかし、イギリスは約束を守らず、それどころかローラット法の制定によってインド人への弾圧をさらに強めました。
★ローラット法
インド人を逮捕状なしで逮捕できたり、裁判所なしで収監できる法律
自治の約束を破られたあげく、インド人を押さえつける法律を制定されたインドの人々の怒りは相当なものでした。そんな中、立ち上がったのがガンディーです。
ガンディーは非暴力・非服従運動(サティーヤ・グラハ)を展開しました。これは文字通り武力ではなく、教育や選挙のボイコット、イギリス製品の不買運動を通してイギリスに抵抗しようとした運動でした。
1929年、ラホール国民会議で完全独立(プールナ=スワラージ)が宣言されます。これに対してイギリスは英印円卓会議を開催して運動の勢いを挫こうとしましたが、反英運動の中止を取り付けることはできず、1935年には各州の自治権を、部分的ですが認めました。
+α 塩の行進
当時のインドでは、塩はイギリスの専売品だったので、インド人は自由に作ることはできませんでした。そこでガンディーはサティーヤ・グラハの一環として、各地の沿岸を訪れて法を破って製塩を行いました。
これは「塩の行進」と呼ばれ、はじめはイギリス当局によって激しく弾圧されましたが、1931年にはイギリス側が妥協し、製塩の解禁と捕らわれていた政治犯の釈放が実現しました。
今回は以上となります。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
また次回お会いしましょう。
戦間期⑨ 激動の中国 PART.B
今回は戦間期⑨ということで、引き続き中国を見ていきます。
様々な人や国の思惑が複雑に絡み合っていて難しく見えるかもしれませんが、頑張ってついてきて下さい!
では始めましょう!
第二次国共合作が成立し、祝杯をあげる毛沢東(右)と蔣介石(左)
①満州事変
事件現場で検証を行うリットン調査団
国共内戦中の1931年、柳条湖で南満州鉄道が爆破される事件(柳条湖事件)が起きます。関東軍(満州に置かれた日本軍)はこれを張学良軍(張作霖の子)による犯行と断定し、に軍事行動を開始します。
これが、日本の15年戦争のきっかけとなる、満州事変です。日本政府は不拡大方針をとり、戦場をこれ以上広げない方針でしたが、関東軍はこれを無視します。
+α 満蒙は日本の生命線
「守れ満蒙-帝国の生命線」
関東軍には伝統的に「満蒙は日本の生命線」という考え方がありました。これは日本
の不景気を受けて、政党や財閥、新聞にも支持されました。この論理によって、日本は満州事変、そして日中戦争に突き進んでいったといえるでしょう。
1932年、関東軍は溥儀を執政とした満州国を建国しますが、どうみても日本の傀儡国(日本のいいなりの国)だったので、国際社会は承認しませんでした。
1933年の国連総会では、リットン報告書に基づいて日本の撤兵が賛成多数で可決されました。これを日本は拒絶し、同年国連を脱退、国際社会での孤立を深めます。
国連総会を退席する松岡洋右全権代表
日本国内でも犬養内閣は満州国建国に否定的でしたが、5.15事件によって犬養毅が暗殺され、軍部主導のファシズム体制になると、軍部に反対できる人はほとんどいなくなりました。
5,15事件を報じる新聞(写真は犬養毅)
②西安事件と第二次国共合作
しかし、日本の侵攻が本格化しても、蒋介石は共産党との戦いを優先しました。これに対して、中国国内全体から非難が巻き起こります。
そんな中、西安の国民党軍を激励に来た蔣介石が、張学良に監禁される事件が起きました。(西安事件)そして張学良は蒋介石に対して、内戦を早く止めて、共産党と協力して日本に立ち向かうべきだと主張します。
張学良は、父の張作霖が日本軍に利用された上、陰謀で殺害されたので、日本のことをとても恨んでいたのです。
彼の必死の説得もあり、次第に蔣介石の心は抗日へと傾いていきました。
そんな中、1937年、盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が勃発します。これを受けて、共産党は抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ、国民党も応じます。
こうして、日本という共通の敵から祖国を守るため、第二次国共合作が成立したのです。
③日中戦争の長期化
南京城入城
盧溝橋事件から関東軍は電撃戦を展開、国民政府の首都がおかれていた南京を攻略しました。この時、大量の民間人を虐殺する南京虐殺事件が発生しました。
しかし、国民政府はそのとき首都を重慶に移しており、そこでアメリカやイギリス、ソ連からの支援(援蔣ルート)を受け抵抗をつづけました。また、華北の農村地帯では共産党軍がゲリラ戦を行い、日本軍を苦しめました。
これらの抵抗運動に対し日本軍は重慶を爆撃したり、汪兆銘(おうちょうめい)をトップにした傀儡政権(=日本のいいなりの政権)の樹立などで対抗しますが、効果を上げることはできませんでした。
+α 「国民政府を相手にせず」声明
当時の第一次近衛文麿内閣は「国民政府を相手にせず」声明を1938年に発表しました。これにより、国民政府との交渉の可能性は断たれ、戦争の長期化を招きました。
(秘密裏の交渉はありましたが、ことごとく失敗しました)
④太平洋戦争へ
1940年5月、ドイツのフランス占領のニュースを聞いた日本は、これを援蔣ルート遮断のチャンスととらえ、北部仏印進駐を行いました。(天然資源確保の狙いもあります)
これを機に英米との対立が不可避となった日本は、日独伊三国同盟(1940)や日ソ中立条約(1941)などを結び、戦争への準備を進めました。
1941年7月、南部仏印進駐を行ったことで、対英米関係は急速に悪化します。そしてついに1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦を決行し、太平洋戦争が始まるのです。
今回は以上となります。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
戦間期⑧ 激動の中国 PART.A
今回は戦間期⑧ということで、中国を見ていきます。
今までの記事でも何度か登場していましたが、この記事でまとめて押さえましょう!
では、早速始めます!
⓪第一次世界大戦直後の中国
1919年にパリで開催されたパリ講和会議ですが、ここで少しだけ中国は登場していました。どういうエピソードで出てきたか覚えていますか?
そう、ヴェルサイユ条約調印拒否ですね!では、なぜ拒否したのでしょうか?
それは、ヴェルサイユ条約では、日本から21カ条の要求で奪われた山東半島の返還が認められなかったからです。
このことは中国人の怒りに火をつけました。国内では激しい反対運動、反日運動がおこり、その中でも特に5.4運動が有名です。
その後のワシントン会議で山東半島は返還されましたが、依然として日本やアメリカをはじめとした国々から植民地化する機会を今か今かと狙われていました。
加えて、国内では軍閥による対立が続いていました。軍閥とは、軍事力を用いてある地域を支配していた集団のことです。当時の中国には多くの軍閥が存在し、それらが互いに争いあっていました。
②第一次国共合作
この状況に焦ったのが、国民党と共産党です。彼らは考え方は根本的に違いますが、どちらもいまは国内で争うのではなく外国、特に日本のため備えるべきだと考えていました。(日本の幕末の志士たちととても似ていますね)
そこで国民党の孫文は、1924年に共産党の連携を決断し、「連ソ・容共(共産主義容認)・扶助工農(労働者や農民の戦いを助ける)」の3本の柱を掲げました。
これが第一次国共合作です。絶対に、今日はこれだけでも覚えてください…!
1926年、ついに国民党は、北京にいる軍閥政府を倒すため、北伐と呼ばれる軍事行動を開始し、これに共産党も協力します。
しかし、北伐の完成まであと一歩というところで、国民党の蒋介石は共産化を恐れ、上海で共産党を弾圧・排除します。(上海クーデタ)
これをもって第一次国共合作は崩壊しますが、その後国民党は張作霖を北京から追い出して、単独で北伐を達成し、ついに南京国民政府を成立させます。
ただ、ここで反発したグループがいくつかあります。
まずは旧軍閥勢力です。当然ですよね。国民党によっていきなり権力の座から引きずりおろされたのですから。
そして、共産党です。上海クーデタで弾圧され、一度はほぼ壊滅した共産党ですが、その後ふたたび力を取り戻しました。こうして復活を図る共産党と、国民党の間で国共内戦がはじまり、中国は混乱に陥ったのです。
+α 日本の反応
爆破現場
北伐による中国の統一は、中国の植民地化を目論む日本にとっては、目障りな動きでした。そのため、日本は3度にわたり山東出兵を行いましたが、妨害に失敗し、北伐は完成されます。
すると関東軍の一部は、日本がそれまで支援してきた奉天軍閥の張作霖を役に立たない用済みな存在と判断し、列車ごと爆殺しました。(張作霖爆殺事件)
この事件は日本では満州某重大事件と呼ばれ、真相は戦後まで国民に隠されました。
今回は以上となります。
ふたたび国内での対立が激化した中国が、その後どのような流れで日中戦争、第二次世界大戦、そして太平洋戦争に突入していくのかは次回の記事で解説します!
お楽しみに!
戦間期⑦ イタリアとドイツ Part.B
今回は戦間期⑦ということで、主にドイツについて解説していきます。特にヒトラーやナチスについては、常識としてある程度知っておく必要があるので、しっかりと理解しましょう!
①賠償金1320億金マルク
ドイツの10億マルク紙幣
以前にも書きましたが、ドイツに要求された賠償金は想像を絶するものでした。1320億金マルクという額は、当時のドイツの国家予算の20年分とも30年分ともいわれています。
当然これほどの大金があるわけもないドイツではハイパーインフレーションが発生し経済は崩壊、国民の生活は非常に厳しいものとなりました。
ここでドイツに助け舟を出したのは、アメリカでした。実はアメリカはイギリス・フランスやフランスに多額のお金を貸していたので
ドイツが賠償金を払えない→イギリス・フランスからお金が返ってこない
となり、損害を被る恐れがありました。そこでアメリカはドーズ案で年額の減額を、ヤング案で賠償金の大幅減額(当初の1/4)をそれぞれ提案し、ドイツの賠償金の支払いは現実的なものになったかに思われました。
②世界恐慌とナチ党の台頭
ナチ党のシンボル、ハーケンクロイツ
しかし1929年に世界恐慌がおきると、状況は一変します。ようやく復興の兆しを見せていたドイツ経済は大打撃を受け、600万人もの失業者がでました。
こうした状況で台頭してきたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)です。ちなみに「国家社会主義」とありますが、これは「社会主義」とは関係なく、むしろナチ党は反社会主義政党だったので注意しましょう。
「国家社会主義」の本質は
国家>国民
というファシズムそのものです。ナチ党は、「ドイツ民族の優位性(ユダヤ人排斥)」「ヴェルサイユ体制の打倒」などを掲げ、強いドイツを目指しました。
カリスマ的指導者を求めていたドイツ国民はナチ党を支持し、ついに1932年の国会議員選挙でナチ党は第一党となります。そしてナチ党党首のヒトラーは、ヒンデンブルク大統領から首相に任命されます。
するとまずヒトラーは、国会議事堂を放火しそれをドイツ共産党のせいにして彼らを弾圧しました。また全権委任法を成立させ(33)ナチ党の一党独裁体制を確立しました。また、公共事業を行うことによって失業者の救済をはかり、国民から熱烈な支持を集めました。
外交面ではヴェルサイユ体制打破のために国際連盟の脱退(33)や再軍備宣言(35)、36年にはラインラント常駐(注:ラインラントは非武装地帯のため軍隊の派遣は禁止されていた)などを行いましたが、これに対してイギリスやフランスはドイツを刺激することを恐れて、宥和(ゆうわ)政策をとりました。
③第二次世界大戦へ
独ソ不可侵条約の風刺画
しかし、こうしたドイツの身勝手な行動を黙認する英仏の態度は、かえってヒトラーの勢いを増すこととなります。ドイツによるオーストリア併合(38)やズデーテン地方の割譲要求(38)などのとんでもない行動があっさりと成功したことからもそれは明らかでしょう。
さて、前回の記事でも書いた通り、1930年代後半のドイツはベルリン=ローマ枢軸や日独伊三国軍事同盟によって同じくファシズムを掲げるイタリアや日本と接近しました。そして独ソ不可侵条約(39)を締結したヒトラーは、ついにポーランドに侵攻し、これを機に第二次世界大戦がはじまります。人類は未曾有の惨劇を経験することとなったのです。
今回は以上となります。
いかがだったでしょうか。第一次世界大戦の反省から何とかして戦争を防ぎたいという英仏の思いが裏目に出てしまったのは何ともやるせない気持ちになりますね。
さて、次回は少し時代をさかのぼって中国をみていきます。この時代の中国史は苦手としている人が多いので次回の記事もぜひ読んでください!
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!
戦間期⑥ イタリアとドイツ Part.A
今回は戦間期⑥ということで、前回に引き続き1920年代、30年代ごろの世界のようすを国ごとに見ていきます。
今回と次回はイタリアとドイツです。ファシズムがという考え方が台頭し、第二次世界大戦では連合国と激しく対立し、その結果第一次世界大戦を上回る犠牲者を生み出したこの二か国。特にナチスドイツによるユダヤ人虐殺は、人類史に癒えない深い傷を残しました。
なぜこのような惨劇はおきてしまったのか。戦争を避ける手立てはなかったのか。そういったことに思いを巡らせながら読み進めていただければと思います。
では、始めましょう。
⓪「持てる国」と「持たざる国」
ドイツによるポーランド侵攻(39)
なぜイタリア、ドイツ、日本ではファシズムが台頭したのか。なぜイギリスやフランスではファシズムはそこまで広まらなかったのか。
その大きな理由として、イギリスやフランスは植民地を「持つ国」だったのに対してイタリア、ドイツ、日本は植民地を「持たざる国」だったことが挙げられます。
1929年の世界恐慌によって各国はそろって不況に苦しめられました。しかし、イギリスとフランスは世界各地に植民地を持っていたため、ブロック経済(自国の通貨を使う国以外とは貿易しない政策)を実施し、不況をある程度抑えることができました。
一方、ドイツ、イタリア、日本はというと、この三ヶ国はイギリス・フランスに比べて、帝国主義を掲げるのが遅かったため、植民地獲得競争に出遅れ、その結果ほとんど植民地を手に入れることができませんでした。
そのためブロック経済を実施することができず、不況はますます進行し国民の不満は高まりました。
では、どうすればこうした国民の不満を解消することができるのか。
そう、この問いに対してヒトラーやムッソリーニが出した答えが「イギリスやフランスのように植民地を持つ」つまり他国を侵攻して植民地化するという考え方だったのです。
そしてその表れがイタリアのエチオピア侵攻(35)であり、ドイツのポーランド侵攻(39)なのです。
①イタリア
第一次世界大戦では未回収のイタリア(南チロルとトリエステ)を返還するというイギリスからの誘いを受けて、協商国(連合国)側に寝返ったイタリアですが、戦後期待したほどの領土や賠償金を手に入れることができませんでした。
これに不満を募らせたイタリア国民の前に現れたのが、ファシスト党の党首だったムッソリーニです。ファシスト党はその名の通り、ファシズム(全体主義)を掲げた政党ですが、ここでファシズムの意味を確認しておきましょう。
さて、このムッソリーニは1922年にローマ進軍を決行し、ファシスト党員4万人と共にローマ中枢を占拠しました。これにビビった当時の皇帝ヴィットーリオ=エマヌエーレ三世は、ムッソリーニを首相に指名します。
こうして政権を奪取したムッソリーニは独裁を開始し、1935年には当時アフリカでリベリアとともに独立国としての地位を維持していたエチオピアに侵攻しました。また、スペイン内戦ではドイツと共にフランコ将軍を支援しました。
※スペイン内戦についてはいずれほかの記事で解説します
これらの軍事行動は国際社会での非難を浴びましたが、ムッソリーニは同じく孤立を深めていたヒトラー率いるナチスドイツに接近、1936年にはベルリン=ローマ枢軸を成立させます。
その後これに日本を加えた日独伊三国軍事同盟が成立し(40)翌年には太平洋戦争が開戦、戦争は世界中に拡大しました。
今回は以上となります。最後までお読みいただきありがとうございました!
戦間期⑤ アメリカの光と影
前回の記事で予告した通り、これから数回にわたって第一次世界大戦後の世界各国の様子を見ていきます。記念すべき(?)第一回目はアメリカです。
戦後、ヨーロッパに代わり世界の頂点にのし上がったアメリカの光と影、両方の側面を見ていきましょう!
その繁栄ぶりは「黄金の20年代」と呼ばれた
①アメリカの外交史(~1929年)
アメリカの外交史に関しては、これまでにも何度か説明してきたので、今回は解説ではなく(抜き打ちですが)確認テストをします!
全問正解を目指して頑張ってください!!!
☆次の文章の空欄(1)~(7)を埋めよ。
1910年代後半まで、アメリカは「他国とはお互いになるべく関わらない」という(1)という考え方のもとで外交を行ってきました。そのため、第一次世界大戦にも初めは参戦しない方針でした。
しかし、ドイツの潜水艦が民間の客船を撃沈する事件などが起きたことで、アメリカ国内では次第に参戦を求める声が高まりました。こうした声を受けて、1917年に当時のアメリカ大統領(2)は参戦を表明しました。また、(3)年には軍備縮小や秘密外交の禁止などを訴えた(4)を発表し、これはその後の国際社会の基本的なルールになりました。
大戦終結後もアメリカは国際社会で存在感を発揮し、1919年の(5)ではイギリス、フランスとともに会議をリードしました。この会議で(4)でも訴えていた「国際的平和組織の設立」は(6)という形で実現しましたが、依然としてヨーロッパと関わることに抵抗があったアメリカ議会の反対により、当のアメリカは不参加でした。
また、ハーディングは1921年に(7)を開催し、太平洋での勢力拡大を狙い、またその上でライバルだった日本をけん制しました。
では正解発表です。
(1)孤立主義(モンロー主義)(2)ウィルソン(3)1918(4)14カ条の平和原則(5)パリ講和会議(6)国際連盟(7)ワシントン会議
間違えてしまった人は今すぐ前の記事から確認してきてください!
②戦時中のアメリカ国内の様子
大戦中、アメリカ国内でも変化が起きました。
a.禁酒法の制定
読んで字のごとく「酒」の販売・流通を禁止した法律です。
「キリスト教の教えを忠実に守るべきだ!」
「酒を造るための穀物があるなら、それを戦場で命を張って戦ってるアメリカ軍の兵士に回すべきだ!」
などといった主張に後押しされて成立しました。
禁酒法を受けて酒を廃棄する人々
b.婦人参政権を求める声の高まり
このような運動は戦前からありましたが、第一次世界大戦によって出兵した男性の代わりに働くようになった女性が
「なんで私たちには参政権がないの!?」
と不満を持つようになったことで加速し、1920年の婦人参政権の実現という形で実を結びました。
③黄金の20年代
20世紀前半からアメリカでは工業化が急速に進みました。加えて、第一次世界大戦によってアメリカは他国へお金を貸す債権国となり、ヨーロッパへの輸出も伸びたので経済成長はいっそう加速し、「黄金の20年代」と呼ばれる繁栄の時を迎えました。
この時代のキーワードは、ずばり
大量消費・大量生産
です。考えてみれば当たり前ですよね。人々が裕福になればものを買う余裕がうまれるし、企業としてもたくさんものを売りたいのでたくさん作るようになります。
この好循環によってアメリカ経済は拡大していったのです。
ベルトコンベア方式で大量生産され、庶民に普及したフォードT型モデル
大衆文化も開花しました。ラジオ放送や映画、レコード、ジャズ…チャップリン(喜劇役者)やベイブルース(野球選手)が活躍したのもこの時代です。
「野球の神様」と呼ばれたベイブルース
「大衆」というところがキーポイントです。貴族ではなく一般庶民が中心の文化です。町人の文化だった元禄・化政文化と通じる所があるかもしれません。
④アメリカの影の側面
このように華々しく見える当時のアメリカ社会ですが、その裏には多くの不の側面がありました。
経済発展したアメリカには、その富を求めて世界中から多くの移民がやってきました。その中で、西欧系の移民と東欧系・アジア系の移民の間での対立、格差が深刻でした。その例として、1924年に制定された移民法が挙げられます。この法律によって日本からの移民は完全に禁止されました。
☆これを受けて、1924年以降はブラジルへの移民が増加しました
移民法の制定への抗議デモ
また、白人による黒人差別も存在しました。白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー=クラックス=クラン)は黒人に対して暴力行為をはたらき、分離政策もアメリカ各地で当たり前のように行われていました。
このようにアメリカ社会では、民族・人種の違いによる格差や差別が根強く存在し、そしてその多くは今日まで続いています。
今回は以上となります!かなり長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました!また次回お会いしましょう!!