戦間期② パリ講和会議とヴェルサイユ条約

今回は戦間期②ということで、第一次世界大戦の戦後処理について解説します。戦間期①の続きとなりますので、まだ読んでない方は先に読んでください!

 

 

さて、まずは今回から数回にわたって解説する内容を年表にしたので、こちらをご覧ください。

少し見ただけで頭が痛くなってきた方もいるかもしれませんが、しっかりと知識を整理すれば何ということはありません。では始めましょう!

 

 

 

  パリ講和会議ヴェルサイユ条約

第一次世界大戦はドイツの降伏によって1918年に終結しました。

 

戦争で焼け野原になってしまったヨーロッパでは復興が始まり、それと同時に敗戦国をどう扱うかについての話し合いがパリのヴェルサイユ宮殿で1919年から始まりました。(パリ講和会議

 

そしてこの会議の結果、1919年に結ばれたのがヴェルサイユ条約です。

 

 

 

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パリ講和会議

 

 

このパリ講和会議で重要なのは

 

    
 
 国際協調を重要視する    アメリ

 vs  

 ドイツへの復讐心に燃える        イギリス・フランス

 

   

 

という対立構造です。もう少し詳しく解説します。

 

 

まず分かりやすいのはイギリス・フランスでしょう。この二国は戦争によって多くの国民が犠牲となりました。そのため、ドイツを非常に恨み、多額の賠償金と領土をとって報復しようと考えてました。

 

一方のアメリカです。もともと第一次世界大戦には参戦しない方針でしたが、ドイツの潜水艦によってアメリカ人が多く乗船していた客船が撃沈された事件(ルシタニア号事件)やドイツの無制限潜水艦作戦(中立国の民間船も攻撃)をうけて、当時の大統領ウィルソンが参戦を決意しました。(1917年)                                       

 

 

       

独潜水艦に撃沈された       ウィルソン大統領                          ルシタニア号                      

 

ここで押さえておきたいのが「14カ条の平和原則」です。これは、ウィルソンがアメリカが参戦した翌年(1918年)に発表したもので、軍縮(軍備縮小)や民族自決(自分たちのことは自分で決める)、国際的平和組織の設立を唱え、国際協調路線を打ち出しました。

 

この国際協調の考え方は、植民地を多くもち、なおかつドイツへ多額の賠償を要求することを考えていたイギリス・フランスにとっては好ましくないものでした。

 

 

そのためパリ講和会議

 

アメリカ vs イギリス・フランス

 

という対立構造が出来上がったのです。

 

 

この両者の対立ですが、アメリカの提案にあった国際的平和組織の設立は国際連盟いう形で実現し、軍縮に関しても同意を得ます。しかし、ドイツに対してはイギリス・フランスの要求通り、多額の賠償が求められました。この過酷な報復がのちに第二次世界大戦を引き起こすナチスドイツを誕生させたともいわれています。

 

何はともあれ、こうして第一次世界大戦は正式に終結し、ヴェルサイユ条約をもとにした国際秩序(=ヴェルサイユ体制)が成立しました。

 

 

 

  ヴェルサイユ条約の問題点

さて、ヴェルサイユ条約はこのほかにも多くの問題点を抱えていたので紹介します。

 

①会議を主導してきたアメリカがまさかの批准拒否                アメリカは伝統的に孤立主義を外交方針としていたため(国際連盟にも不参加)

 

孤立主義:1823年にモンローが掲げた考え方。ヨーロッパとは互いに関わらないことや、ラテンアメリカでのアメリカの優位性を主張した→戦間期③で改めて解説

 

②中国の調印拒否                                  →日本の21カ条の要求が承認されたため

 

※21カ条の要求:1915年、日本が中国に対して行った要求/ドイツ権益の継承を主張

                        

③日本が提案した人種平等が否決                            →賛同国も多かったがウィルソンが反対したため否決

 

 

 

今回は以上となります。お読みいただきありがとうございました!